人生の意味を問いたくなった時に繰り返し読むヴィクトール・フランクルの「それでも人生にイエスと言う」。
著者で講演家でもあるヴィクトール・フランクルのナチスの強制収容所に入れられていた経験から見出された「人生の意味」について、重大な気づきを与えてくれます。
20代の時に一度読んで感銘を受け、10年以上経った後に再度読み返して、より具体的に解釈ができるようになったと感じます。
目次
著者ヴィクトール・フランクルの略歴
1905年オーストリア・ウィーン生まれ。ウィーン大学在宅中から精神科医で心理学者のアドラー、フロイトに師事して精神医学を学ぶ。
1942年、家族と共にナチスドイツの強制収容所に収容され、両親と妻を収容所で亡くす。
1944年にアウシュビッツに送られ、3日後にテュルクハイムに移送され、1945年4月にアメリカ軍により解放される。
その後はウィーンの神経科病院に勤務した。
本書を読んでの気づき
私たちは、悲観主義にもとづいてしか、行動を起こすことができない
懐疑的な態度をとってはじめて、なお何かしようと手をのばすことができるのです
現状に満足していたら、自分の内面を進歩させるために行動しようとは思いません。不安や恐れこそが行動の動機になります。
現状に対して悲観的であることは、現状をより良く変化させるための可能性があることを意味します。
生きることはいつでも課せられた仕事で、義務である。
「人生がつまらない」「自分の人生は他の人と比べて幸せではないような気がする」と思っていた時にがツンと頭を殴られたようなこの言葉。
生きることは労働であり、義務であると捉え、その前提で生きようと思ったら、良い意味で自分の人生に期待しなくなりました。
人生の意味を問うて悩んでも、時間は淡々と流れ、私たちの人生は刻一刻と死へ近づいています。
悩んでも答えの出ないことに悩むことは無意味な時間なのだと気づきました。
楽しみそれ自体は、生きている意味を与えることができるようなものではい
人生に楽しみを求めて、それが得られないことに悩む人は多いと思います。
しかしヴィクトール・フランクル博士は、楽しみそのものは、生きる意味を与えるものにはならないと言っています。
「楽しい」という感情は一時的なものであり、永続的に続くことが保証されるものではありません。
人生に楽しさを求めること自体は、私は意味のあることだと思いますが、楽しみが得られないからと言って悩み、苦しむことは、意味のないことだと思います。
人生それ自体がなにかであるのではなく、人生はなにかをする機会である。
「自分の人生とは何か?」と問う人もいますが、人生そのものは何物でもなく、何かをする機会であるとフランクル博士は説いています。
私たちが持つ「人生」という時間は、たとえるならば、テーマパークの入場チケットのようなものなのかもしれません。
与えられた時間をいかに過ごすかは自分次第。どんなアトラクションに乗るも、どんな感情になるも、それぞれの人生で決められたことです。
人生こそが私たちに問いを提起している
・「 私は人生にまだなにを期待できるか」と問うことはありません。「人生は私になにを期待しているか」と問うだけです。人生のどのような仕事が私を待っているかと問うだけなのです。
・人生こそが問いを出し私たちに問いを提起している からです。 私たちは問われている存在なのです。
この言葉の通り、私たちが人生の意味を問うたり、人生に何かを期待するのではなく、人生の方が私たちに期待しています。
より分かりやすい言葉で伝えるなら「使命」です。
私たちはこの人生で何を成し遂げるのか?
その場合の生きる意味を、どのようにして実現できるのか。
フランクルは以下のように述べています。
第一に、なにかを行なうこと、活動したり創造したりすること、自分の仕事を実現することによってです。
第二に、なにかを体験すること、自然、芸術、人間を愛することによっても意味を実現できます。
第三に、第一の方向でも第二の方向でも人生を価値あるものにする可能性がなくても、まだ生きる意味を見いだすことができます。
この「人生の意味」は、他人と比べる外面的な成功ではありません。
地位や名誉を得たとしても、内面的な喜びを得られたり、長生きをしたりする保証はないからです。
一方で自分が心の内側で感じる内面的な成功は、「確実に到達されたもの」とフランクルは言っています。
内面的な成功は確実に到達される
本書の中で、多忙な広告デザイナーの男性が登場します。
彼は活動的でやりがいのある職業生活を送っていましたが、悪性で手術もできない重篤の脊髄腫瘍を患ってしまいます。
病院で横になっているとき、彼は猛烈に読書に取り組み、ラジオで音楽を聴き、他の患者さんと積極的に会話を交わしました。
以前はできなかったことを通じて精神的世界を充実させることにより、彼は人生の意味を見出そうとしたのです。
しかし病気が進行して書物も手にすることができなくなってしまいます。
そしていよいよ死ぬ数時間前になった時、彼は当直医であったフランクルに、死ぬ直前の苦痛をやわらげるためのモルヒネを、フランクルの勤務時間内に打つよう指示を出しました。
フランクルが残業をしなくても済むようにとの配慮でした。
死ぬ数時間前になっても、彼は周りの人を妨げないことで、生きる意味を見出したのでしょう。
最後まで周りの人へ配慮することで、この男性の生きる意味は、「内面的な成功」として到達されたものになったと言えます。
生きる意味は、すくなからず、外面的な運命に対して どのような態度をとるか、もはや運命を形成することができないとき、またははじめから変えられないとき、どうふるまうかにこそある
以上がヴィクトール・フランクルの「それでも人生にイエスと言う」を読んで、私が心に留めておきたいエッセンスです。
生きる意味を問いたくなった時は、また読み返そうと思います。